オシエビトになれなかった男(2)

(1)より続く

散々あがいた挙句に、結局私の指導者生活はそれから2年余りで終焉を迎えました。

拠点を複数の後進に分割譲渡する形で斯界を離れることを選んだのでした。厳しい決断ができたのも信頼できる後進に託せたからです。

思いの他、武道の世界に未練を残すことが無かったのは、完全燃焼できたとの思いがあったからでしょう。自身の器としてあらん限りの潜在能力を引き出すことができ、周囲の協力もあり納得いくまで戦えたことに孤独な達成感を覚えもしていたのです。

家族のためにも後ろを振り返っている余裕はありませんでしたが、ただひとつ心残りであったのが、あの計画を実行できなかったこと——経済的事情で道場に通えないであろう子供たちに武道の手解きができなかったということです。特に親のいない、あるいは親と離れざるを得ない子どもにこそ十分な教育機会が与えられるべきではないかとの思いは、むしろ指導者を離れてから強くなるのでした。

あれから10年、現実は理想に対して寛容ではなく糊口を凌ぐ年月を重ねました。

理想が理想のままであるが故に発想はより自由なものとなり、それを理想に終わらせるのではなくいつしか実効性の高い事業として確立できないかという自問が始まりました。その根底には、経験上同じような思考を持つ指導者は自分だけではないという確信があったからです。

途中、武道の世界を離れて3年程が経過した頃にそんな構想が動き出そうとしたことがありました。丁度オシエビトという称号を発案した頃のことで、人づてにある投資家の知遇を得て、構想の現実化に向け協議をすすめていました。しかし運命のいたずらか、それ以前に応募していた大手企業からそんな時に採用内定の通知を受けたのです。

散々悩んだ挙句に、結局その大手企業へ就職するという選択肢を取ることにしました。内定を受けて初めて、臆病になっているのを思い知らされることとなりました。廃業に至る記憶も生々しい時期でもあり、投資家から多額の投資を受けること、そしてどん底を見せてきた家族の存在は重かったのです。

安定した職に就くこと6年、充実感を持って仕事に臨んできましたが、諦めかけた理想をもう一度追いかけるに至ったのは、職場での転機もありましたが、誰もがリスクを負わない事業モデルに行き着いたからです。

過去の失敗から、例え理想のためであってもリスクを最小限に止めることの重要性を学びました。集客型事業の成功は、また同時に大きなリスクを内包するのです。

オシエビト・プロジェクトの大きな特徴のひとつはオシエビトがリスクを負わないことです。ただし活動に伴い「指導力」が問われることになります。逆に申せば「指導力」ひとつで参加していただけるのがオシエビト・プロジェクトなのです。

もうひとつ、私は指導者の多くが理想家であることを知っています。「すべての子どもに自信と生きがいを」というオシエビト・プロジェクトの理念は、次の世代につなぐ仕事に生きがいを見出す指導者のメンタリティーから生まれたものです。

つまりは私が宿す挫折の経験と指導者のメンタリティーがオシエビト・プロジェクトを生むきっかけとなったのです。

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